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★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

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私は×2のシングルマザーで実家に「居候」の身分で
姉のように家や車は貰えず「居候のくせに」って笑われていて
父の機嫌をうかがいながら、ビクビク過ごしていて

毎日がストレスフル。
いま、これを打ってても、打ってる音で父がキレないかビクビクしてる。


見下されるのも、優しくしてもらえないのも、頭では仕方がないって思ってる。
でも、それでも、勝手に心が傷ついてしまう。

パニック障害の人は乳酸が溜まりやすくて
50ミリの乳酸を注射すると自動的に発作が起きるという実験結果がある。
それを裏付けるかのように私は業務用の掃除機で広い売り場を掃除すると発作が起きる。
3回は実験してみた。3回とも発作が起きた。
パッキンの積み下ろしだとかも、試したりするので(わりと実験が好き)
限界値も把握できてるし、それ以前に乳酸の溜まる感覚を覚えた。

いやな感覚だけど
ジワジワと痺れてきたり、ぶわっと汗が出たり、血液が微炭酸になったような・・・
感じ方によって様々なのだけれど
最近、確信したのは
精神的なストレスを感じた時にも、体内にぶわ~~~~~~っと乳酸が発生すること。

もちろん、感覚的なことですから
科学的、医学的にはわかりませんよ?
一個人の感覚なんですけど・・・

接客業なので、お客様にキレられることも多々ありますし
ストレスの多い職場だけにスタッフ同士の人間関係も複雑で
傷つく場面や、我慢する場面が、い~~~~~~~~~~~っぱい、あるんです。

キレられて一気に空気が張り詰めると、ぶわ~~~~~~~~~~!!!!
酷いこと言われて、しばらくしてから、その酷さに気が付くと、ぶわ~~~~~~~~~~!!!!

あまりにもそれがディープインパクトだと、速攻発作。
ジワジワくると、眩暈や手足の痺れ、変な汗と発作の前兆。

私だけだと思いますけど
酷いこと言われても翌日まで気が付かない事もあって
そういうのが一番、柔らかいです。
軽くめまいとか、痺れとか来ますけど、ふわっとしてます。
その分、凹むけど。


心よりも体が先に反応してしまった場合って
心は意外と楽なんです。

きっと、防衛本能なんでしょうね。
心で受け止めきれないから、体で受け止めてる。

弱いのかっていうと、そうではなくて。
むしろ、傍若無人な客には立ち向かうんです。
暴力的な人にも、威圧的な人にも、笑顔で対応出来るんです。

そういう、むしろ、強すぎる一面があるから
体が心を守るんですって。


難しい?

私も半分くらいしか理解してないです。


パニック障害は脳の機能障害ですが
脳の機能自体が、まだほとんど解明されていないので
本当に脳の機能障害なのか怪しいところですが
乳酸については、私が実験済みです(笑



で・・・

なんでこんな話になったかって言うと

いま、まさに乳酸を感じていて・・・・眠れなかったんです。





じゃあ・・・・

書いたから眠れるかっていうと・・・そうでもないんです。

乳酸の原因は両親からのストレスで、愛情不足なのです。
欲求不満な部分を食欲とかで埋めないと、収まらないんじゃないかなって思うけど
今食べたら、もたれちゃって眠れないんだろうな、とか

いろいろ考えて

とりあえず、書こうと思ったのでした。



繁忙期を迎えて、週40時間以上働いているけど・・・辛いね~。

たまにはPDを理由に休んでみたいなぁ。


いや、その前に・・・無事に自立できるのか・・・すげ~不安。

ああ、この不安も食欲でカバーしてたら、マツコになっちゃうな。



それも、ありかも。

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何を幸せと思うか‥それだけで、人生は変わる。

些細な事にも幸せを感じると、人生は本当に明るく幸せになる。
パニック障害や広場恐怖やウツを乗り越えて、こんな単純な答えに辿り着き、生きる事がとても楽になった。
もちろん、治ったわけではないから、様々な症状はある。
疲れすぎると手足が痺れたり、初めての事に酷く恐れを抱いたり、人目が怖くなったり‥。
そういうときに、私を助けてくれるのは、他の誰でもない、私自身だ。
誰かが助けてくれると思っているうちは、何も乗り越えられない。

もう1つ、人生を変えるのは客観視という視界を持つことだ。
客観的に自分を見ることで、冷静に判断する事が出来たり、内側で渦巻く感情に翻弄される事無く、行動する事が出来るようになる。これはとても大事な事。
他人に甘えたくなる気持を置き去りにして客観視することで、甘える事を恥ずかしいと感じ、冷静になる。

そして最後に、自分をコントロールしている事に、自信を持つ。
それはもう凄い事なのだ、と自分に言って自分を褒めて自信にする。
その自信が、客観視を強め、良い循環を作って、さらに強くなる。


私には簡単な事ではなかった。
精神障害を1つも経験しない人には、ごく当たり前でわからない話だと思う。
何を大袈裟に言ってるんだって思うだろう。
大袈裟?
本当に?

誰にでも、何かを乗り越えるときはある。
誰でも精神疾患を経験する可能性がある。
他人事でもないし、笑う事でもない。

あなたは、その時に、笑っていられるだろうか?否、笑えはしない。

苦痛と苦悩と涙の中で、ひとりぼっちで立ち上がる、その‥苦しさ‥‥
何度も立ち上がれなくて膝を付き、その度に大きな苦痛の波に溺れ
繰り返して、繰り返して、やっとやっと立ち上がった、その時の‥‥痛み。
忘れられないし、もうあの波に溺れたくない。
毎日、そう思う。

だから、冷静に頑張っている。
小さなことに満足して、客観視して冷静に判断し、コントロール。

あんなに毎日、誰かに迷惑をかけて、泣いてばかりいた私が
今は、一部の人しか症状を知らないし
私を「いつも元気」と言う人ばかり。

本当に、人生が変わった。

いろんなことが良い方向に進むようになった。
娘が一緒に暮らす事を決意した様子だったり
まともに働けなかった私が正社員に向かって進んでいて
もう少ししたら自立する。

シングルマザーとしてたくましく生きる自分を
ほんの数年前は想像も出来なかった。

とはいえ、娘の決意はまだ不確実で、自立の準備も半分怖い。
ワクワクするものの、やはり一人で全て出来るのか不安だ。

ま、いいか。なるようになるさ。

あれこれ思い悩むよりも行動するほうがいい。
何でも、わりと、なんとかなるもんなんだから。

そこで、泣いてるより、立ち上がってみてよ。
きっと、歩き出せば道が見えてくるから。

八方ふさがりで、どうにもならないガケっぷちでも
きっと、道はあるから。
大丈夫だよ。

あなたも、私も、案外、弱くないんだから。

そうだよ、人間はタフなんだ。

そして、人生は甘くないけど楽しめるんだ。

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今、一緒に暮らしている末っ子の息子は
父親が、引きこもり廃人…自閉症の疑い、大いに有り
母親である私が、パニック障害。

今月2歳半になる息子ですが、言葉の遅れもカラに籠る様子も無く
保母さんからも、大丈夫ですよって言われたのですが

最近、スイッチが入るんです。

例えば、かんしゃくを起こして手にしていたおむすびマンを放り投げておきながら
数十秒後に、突然スイッチが入ったように、大泣きする。
おむすびマンを手に戻しても、抱っこしても、しばらく止まらない。
「大丈夫だよ」とか「どうしていいかわかんないの?」とか「コチョコチョするよ?」と
あやしていると、ふとした拍子に「イヒヒ」って笑い出す。

今日は、寝る前に「カルピス」か「ミルク」を要求して
可愛らしく口を尖らせて「カプピチュ~」「ミウクゥ~」と言っていたのが
突然スイッチが入って、大泣き。

スイッチの入り方が衛星放送より早い。
はるかに早い。
センサーライトみたい。

なんか、それを見ていて…上の子達には無かったな~って思って…
でも、そのスイッチを、私は知っているような気がして。

両親からは無視され続けた部分だろうなって思って…

出来る事なら、スイッチが入ったら、必ずだきしめて「大丈夫」って言ってあげたい。
仕事でいないことが多いから、両親にお願いしたいけど
両親は私の病気を全く理解していないし、理解しようともしないで否定しているので
どう考えても、お願いできないし…
息子もまた、私のように、あふれ出す不安を無視されるのか…と思うと

たまらん気持ちです。

早く、どうにかしないとなって、思うけど、どうしたらいいか、今は答えが出せません。

働く事で精一杯になってる場合じゃないんだなぁ…

そう、思うと、頭がクラクラ…。



感情をコントロール出来ないって事が
自分でも理解できたのは、電車に乗れなくなってからで…
むしろ、感情を抑えて生きてきたのに!と思っていた。

もちろん、自分が周りの友達と、何か違うんだって事はわかってたけど
その理由まではわからないかったし
まさか、自分の脳が機能障害だってことは思いつきもしなかった。
謎だらけの中、コントロール不能な自分…もう、自分だとは思えなくて
今、歩いているのは誰の足なのだろうって、そんな感覚。

結局、それまでの自分を取り戻すよりも
現在と未来の自分を再構築してコントロールする方が可能だったから
一つ一つ、構築していくしかなかった。

こういう場合、こう考える。
こういう時、感情があふれ出す。
こういう状態で、発作が起きる。
今、不安に思っている…何を?
今、怖いと思っている…どうして?
この足は私のもので、私が指示を出して動いている。
足を触って確認したり、手を切って血を流してみたり。。。

毎日前進したわけでは無くて、一進一退を繰り返した。
再発したら、半分以上やり直しで。


今でも、症状はあるし、自分を見つめていないとコントロール出来なくなるし
理解が無い分、自分ひとりで、どうにかしないといけなくて辛い。

こんな思いを、息子もするのかと思うと、痛い。

あるいは、幼い頃に、抱きしめて「大丈夫」と言ってくれていたら
今の自分のこの苦しみは無いのかと思うと、それもまた痛い。


自分は、望みすぎているだけなのかもしれないが

こんなにもか、と、思う。

こんなにも人生は辛いのか、と。

努力は報われるって言うから、努力が足りないのかも知れないな。
日々の些細な感謝を忘れて、傲慢になっているのかも知れないね。

「辛い」が重過ぎて、早く人生が終わらないかなって、また思ってしまう。

早く死にたいって、口にしてしまうこともある。

けど、出来るなら、人生を全うするって意味で「早く人生が終わって欲しい」と願いたい。

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これまでの私のパニック障害に関する思考に近い医師を見つけました。
薬で治すのではなく、根本的な原因を探って
病気というよりも「必然的なこと」と受け入れて立ち直る、的な。

興味のある方は ↓ どうぞ読んでみてください

パニック障害と「ウツ」――“いま”を生きづらい現代人への警鐘
http://diamond.jp/series/izumiya/10021/

↑ この記事をかいた医師のクリニックは
薬物療法ではなく、カウンセリングなので料金が高いですね(笑
そこは保険が利くようにしていただきたいなぁ(笑

まあ、東京なので私は通えませんけど。

おまけに発作も年に2~3回あるか無いかで日常生活は頑張れてるから
今の私にカウンセリングが必要かどうか…


「心と脳のバランスが崩れた時に警告として起こる不安発作」
という考え方は理解できるような気がします。

また
「薬によって脳内物質をコントロールしたところで完治するのか?」
という疑問も、もっともだなって思います。

今、今日一日を頑張っている私は、今を生きているのでバランスがとれているのかもしれない。

けど

バランスってなんなんだろう?

わかるような、わからんような。



ともあれ、私は今とても調子が良いです。

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今まで…私は頓服で薬を飲んでいて
仕事を始めると
2ヶ月おきに疲れが溜まりきって
状態が悪くなって
発作を起こしたり眠り続けたりしていた。

それが、今現在は
薬も飲まずに状態も悪くならずに
仕事を始めて5ヶ月が経った。

どういうことかと説明すると…
もちろんこれは、科学的な根拠など無い私の考えだけれど

パニック障害の人間にとって
肉体的疲労と精神的疲労と
時に精神的ショックの起こり得る仕事というのは
綱渡りなのである。

想像してみてほしい。

ごく短時間の簡単な仕事であれば
それは地上からわずか30センチほどの綱で
しかも2本綱がある状態を渡っていることになる。

主婦のパート程度の仕事であれば
綱は2本のまま地上から2~3メートル離れる。

ごく普通に週40時間程度の仕事であれば
綱は1本になって地上から10メートルほどになるだろうか。

それでも、家族や恋人のサポートがあって
甘えられる所があると地上には命を救うネットとクッションが存在し
それに安心して綱から落ちてしまう。

そういう再発が、何度かあったと思う。

最初の離婚の後、実家に引きこもって数ヶ月後に
東京で働いていた頃は…
今と同じ仕事だったわけだけれど
職場にも理解があって少しづつ勤務時間を長くして
他の人よりも慣れるための時間を多く作ってくれた。
恋人もいなくて家族の理解も篤くは無かったけれど
同居していたのが姉だったので今より甘えられて
だけど、甘え方がわからなかったので
再発までは行かなくて
休日は12時間以上寝てしまい、仕事中何度か発作を起こした。

それで、今現在はどうなのかって言うと
1本の綱は地上15メートルで命を救うネットやクッションが無い状態。

家族の理解やサポートは、病気に関して全く無くて
むしろ言うな!って命令されていて
今後は恋人すら作るつもりが無くて一人で子供を育てるつもりだから
ガンガン働いて貯金しなくちゃって毎日思う。
毎日会えない子供たちを想って泣いて死にたくなる気持ちを否定して
ときどき目眩がして、手が痺れたり、発作の前兆の前兆があったりするけど
全力で否定してる自分がいて

ああ、本当に私は命がけの綱渡りをしているんだなって思う。

命がけだからこそ、再発なんてしてられない。

そういう状況が、パニック障害をひっこめちゃってるのだけれど
これを治療法と考えるのは、危険なのでしょうね。
ですから、誰も、真似しないで下さい。

長生きできなそう(笑

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社員の人には私のPDは伝わってるハズなんだけど
掃除機が割り振られていて
息がヤバめになりますけどって言ったんだが
なんだそれ。って言われて変更してもらえなかった。

PDのことを説明するのも嫌なくらい軽薄な受け答えに
多少意地になって、掃除機やった。
業務用の吸引力が強い掃除機を激しく前後させるのは
かなりな全身運動で
15分ほどで息切れと手足の痺れで辛くなった。
しかし
PDってのは原因も治療法も不明なわけで
病気と言えるのかわからないのだし
同じ給料貰ってるからには他の人と同様にやらなアカン
と思うし
店長は病院へ行けと言うけど薬中毒になりたくないから
行きたくない
なら
尚更やらねばならぬではないか。

そう思って
やりきった途端
息苦しくなり、涙がボロボロ出た。

近くにいたスタッフが驚いた。
説明してあったけど
やっぱり驚くもんだよね。


心優しい年上の主婦さんが
「辛いから涙が出るんだよね」
と言ってくれて
ああ、そうなんだなーって納得した。

今まで、発作の時に涙が止まらないのは何故なのかわからなかった。
そうか
そんな単純なことなんだ。
だれもが納得出来ることなんだ。
そう思えたのが嬉しかった。


PD=理解しがたい
と決めつけていた。


不安や恐怖を感じる部分が機能障害なのだから
体が辛いと涙が出るのは納得だ。


毎日が失敗の連続で
精神的に辛い部分もあるけど
あと数ヶ月したら、楽しくなるにちがいない。


なんだそれ。と言った社員は
まだ若くて
だから、仕方ないゃ。

掃除機も出来るようになりたいと思う。

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新しい職場では、PDのことを言わないつもりだったのだが
やっぱり掃除機ガケで出てしまい・・・
結局、言う事になってしまった。

偏見が怖いっていうのもあるけど
イマドキは少ないだろうと思うし
新しい職場の人たちは、たぶん大丈夫だろうと思う。

むしろ、過呼吸を回避出来なかった自分に
がっかりした。
自己管理するつもりだったのに。
出来なかったことが、くやしい。

新しい職場で、実家で
どちらでもアウェイ感があるというのが・・・どうも辛いみたい。
実家は仕方ないとして
職場は慣れれば、ナントカなるんじゃないかと思う。

少しづつ、信頼を得て行くしかないだろうな。
どうしても「PD=気を使う存在」で
「使えない」あるいは「面倒臭い」となってしまうから。
認めてもらうには、地道に頑張るしかない。

本当に、久しぶりに偏見が怖い。
・・・なんでだろう?

PDの事を打ち明けた後はテンションが上がらなかった。
明るく明るく頑張っていたのになぁ~。

いやいや、気にせずに明るくやっていかなきゃな。
気を使わせすぎないように、私が気を使わなきゃ。
まだまだ、日本はそういう国だね。

医者に行くように勧められたけど
それは、雇う側が安心したいからで・・・
私は、行きたくない。
結局のところ医者は薬を出すだけで、何もしてくれないのだから。

毎日、仕事のノウハウを頭に詰め込んで
即、実践に出されて、クタクタです。
緊張の毎日で疲れてます。
でも・・・実家では「ため息をつくな」と言われて愚痴も言えない。
当然のことながら、PDのことも言えない。
病院に行くなら、両親には内緒で行かないとな~。
・・・メンドクサイ。

ともかく・・・
一日一日、必死なので・・・
わけわからん。

職場が遠いので毎日がドライブで・・・助かってる。
大声で歌って、山道を走って、モヤモヤを吹き飛ばしてる。
明日も頑張ろうって気持ちになって帰宅できるのが、良い。

仕事に慣れてからPDとの付き合い方を考えようと思う。
今はもう、必死だから(笑

どうか、頑張れますように。

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私の元夫は、モラ夫だ。
それはもうパーフェクトに。
現夫も、リトルモラ。
何故なんだろう?と日々悩んだが
なんてことはない
父こそが元祖モラなのだ。

さらに母もモラ。

モラモラ夫婦は互いに相手を支配出来ないので
子供を支配する。


今日は父に「私の前で怒ったり落ち込んだりするな!」と命令された。
なんだかんだ討論したが
結局、命令で終わった。

モラモラ~。

同席の母は大爆笑のち沈黙。
何も無かったようなそぶり。

モラモラ~。

こんな家に産まれたくなかったな~。

父は私が離れて暮らす子供達の望みを叶えようとすることが
私のワガママだと言う。
そして
「自分の思い通りにならないからってイライラするな」と言う。

う~ん。

わかりたいけど、わからんよ。

父は子供達を育てている元夫に感謝しろと言うが
最近の私には、元夫が子供達を育てているのは
離婚してもなお私を支配したいからだと思うから 感謝出来ない。
子供達を支配することでモラ満足してんじゃないか?

相変わらず手紙は来ない。
子供達は出し方を知らないらしい。
ということは、私が以前送った手紙が
子供達に届いてないんだ。
詳しく手紙の出し方を書いたのに。

また書こう。

子供達は自信を持てているだろうか?
なるべく自信を持てるような会話を心がけてはいるが
心配だ。

私の家に泊まりたいと、言えない子供達。
父親を怖がるのは、よくあることだが
しかし・・・。





しんどいな。
生きるのはしんどいな。

辛い事と楽しい事が同じだけあるなら
この先、私はスゲー楽しい人生だな。
楽しみだな~。
どんなんかな~?

ああ、少し気分が良くなった。
寒中散歩終了~。


夜・・・両親が寝た後です。はい。
父は不機嫌で「お願いします、と頼まれてないから」と
風呂も沸かしてくれなかった。
自分の役割だと言いつつ、お願いされなきゃ嫌なんだって。
モラモラ~。

パニック障害(PD)と精神的虐待について調べてみた。
悲しくて、あんまり読めなかった。
PDの専門医が書いたコラムによると
PD患者には幼児期にトラウマがあることが多く
その大半が母親に受けたもので
PD患者には父親が好きだと言う人が多いのだそうだ。

Ψ(ΘoΘ)ハ~イ私で~す。

PD患者は自分を抑えて相手の意見に沿わせてしまうので
モラにとっては格好の餌食のようだ。
そしてモラに気付かずに、どんどん支配されてしまうのがPDなのだそうだ。

Ψ(ΘoΘ)ハ~イ私で~す。

母親とのふれあいが足りなかったとか心理的なネグレクト(育児放棄)とか
(他にも色々トラウマの原因はあるけど)
どうなのかな~?当てはまるのかな~?
生後2ヶ月半から母は仕事に復帰したけど・・・姉も同じように育てられたハズ・・・
姉と私の違いは何なんだろう?
・・・私の担当は父だったと聞いたことがある。
どの程度、父が担当したかはわからない。育児は苦手な人だ。
しかし・・・姉は極度に父を嫌っている。
それこそが私たち姉妹の最大の違いだ。
私は、どう頑張っても父が好きだ。

たったこれだけの違いで
一人は剛健に、一人はPDになるものなのか?
同じ家で育った姉妹だというのに?

ハッキリとはわからないけど、納得は出来そうな仮説だ。
ひどい発作を起こして、意識が朦朧としながら泣き叫んだ時
私には記憶に無かったはずの母が見えた。
必死になって「行かないでお母さん!」と叫んだ。
あれこそが、PDの真相だったということだろうか。
そういう解釈が出来てしまうなぁ~。

断定はしないでおこう。

ともあれ、父が大好きで、父に似た男と結婚し
それに気付かずに二度目も同じ過ちをした、アホゥな私。

しかし・・・こんな話を家族の誰も聞いてくれないだろうなぁ~。
と思って、ここに書きました。

そうなんだなぁ~・・・家族に話したい事を話せなくてここに書いているんだ。
誰かが聞いてくれたって、思えるから。
とりあえず、それで少しは安心する。
時々、ウザがられてんだろうな~って凹むけど
書かなきゃ落ち着かない日もあって。
まさに今日だけど。

そういうブログなんだなぁ~。
自己満足ですよね、結局ブログって言うのは。
それがどういう内容であれ。

ま、いいや。


自分の人生の苦労の原点がハッキリしたみたい。
これまで、ずっと衝突を避けて、同居を避けて来たのは・・・
受け入れたくなかったのかもしれないなぁ。
モラモラな両親と・・・
自分のトラウマと・・・
受け入れ・・・てない、な?まだ、だな?
たぶん?
だってスゲー涙出るし、しんどいんだもん。
まだ、どこかで嘘であって欲しいと思ってる。
だから毎日のように現実にショックを受ける。
どんだけショック受けたら受け入れられるのかな?

ちょっと疲れると、私の人生の苦痛は全て両親の責任じゃないか!って思いたくなる。
だけど、それは・・・あまりにも幼稚で「逃げ」でしかない。
たくさん息を吐いて、口を閉じる事が出来る私は
少しは大人になったのかな?

ひとそれぞれ、大なり小なり苦痛はある。
生きているから痛みを感じるのだ。
痛み無くして人生を踏みしめる事は出来ないよね。
ち~~~~~~~っとも、楽しくないよね。

苦労して得るからこそ、楽しいんだよ。
そういうもんなんだよ。

だからね、最近は確信する。
数年後、私は3人の子供と暮らすようになるって。




お父さん、お母さん・・・あんたら酷いけど、大好きだよ。長生きしてね。
ハッピーでたまらん私の笑顔を見るまで逝かせないわよ。

拍手[1回]

今朝も母に
「くよくよしてちゃダメよ」
などと言われ・・・

私の状況とか気持ちとか・・・は、考えてなくて
単にウザいから明るくしろって言われた感じです。

そうだね~。
ぼんやりして話すのも疲れる人なんてウザ~。
わかってるけど疲れてんのよ。

ついでに母は
「私の母親もクヨクヨしてたから・・・」
と口ごもりました。
その続きは「死んだ」です。

おーい!不適切な発言だぞ~!

ま、胃がんですけどね。
そうか、クヨクヨしてて死んだと思ってるのか。
自分は捨てられて、でも頑張ってますってか。

そうだね~。
えらいね~。

はぁ~・・・疲れる。
母よ
頑張ってるっていうアピールのために
あそこが痛い、ココが変って病気ぶるのやめれ。


発作・・・起こしたくはないんです。

完全に両親は私が「気が弱い」「負けてる」から発作を起こすと思っていて
父には「泣くな!」と言われました。

泣きたくも無いんだよ。
大声で号泣なんて恥ずかしいんだよ。
発作だって、理解されないんだから起こしたくなんか無い。
ウザがられるから起こしたくない。

専門医にかかって薬漬けになっていれば治ったらしい。
私が専門医に行ったのは発病から10年も経ってて・・・
慢性化しておりまして・・・
それでも、どうにか自分でコントロールしてたりしたんです。
けども・・・
理解の無い人に囲まれていては
難しいんだねぇ~これが。
意識しすぎて壊れるっていうか・・・。
気を付けているから伝線しちゃったストッキング的な・・・。
ああ~~~~もお~~~いやんなっちゃう!って感じ。

ストッキングなら交換すればいいけど
脳は交換できません。

今一度、専門医に行くべきか・・・う~ん・・・。
薬漬け・・・う~ん・・・。
ま、別にいいんだけどね。
慢性化した場合の治療法ってのがググっても見つからなくて。
どういうふうになるのかな?
つか、山形でも追い帰されたしな・・・。
医者が嫌だ。

コントロール出来ていたなら、これからも出来ます。

うん。
きっとそう。
大丈夫だよ。
たぶん。

だいたい最近(ここ数年)の発作は強いストレスが発端となっていて
以前のように階段の途中でとか道端でとか掃除中とかに突如発作ってのは無い。
つまり、強いストレス状態にならないようにすればいいんだ。
胃のためにも。

だけど難しいのは、脳が不安を感知しやすいってことだ。
ノルアドレナリンとセロトニンの機能不全でそうなっちゃうんだけど
それを回避するには・・・?

まったり?

あんまり考えない事だな。
それでいて自分の脳の欠陥を忘れない事。
意識してリラックスすること。
・・・意外と難しい。

以前にも出来ていたんだから、出来ます!

はい。

ま、ね。
時々今日みたいに考えておけば、忘れないさ。
結論を前向きにする事が重要ね。

問題は両親だな。
経済的に考えても今年は同居するしかないんだが
ああやって頻繁に不安を感じさせてくれるんじゃあ
私のコントロールもボロボロですがな。
・・・説明・・・。
しにくいな~。
出来るならとっくにしてるし・・・つか、したよ。何度も。
伝わらないのね~。
あ~はっはっは~・・・胃が・・・。

この課題は置いといて。


「コントロール出来る」=完治なんだってさ!
ゆえに「再発する」んだってさ!
なんだそれ!!!!
患者としては治ってないのと一緒。

というわけで全世界のパニック障害の皆さん
あんまり頑張らずに、そのままの自分でオッケーです。
リラックスを心がけて脳の欠陥を忘れずに生きましょう。

たまには発作も仕方ないです。
美容院や病院や電車が怖いのも仕方ないです。
スーパーが息苦しい日もあります。
別に悪い事じゃないです。
明日にしましょう。
そのうち行けますから。

私は昨日の発作で右手を左手で掴みすぎて傷が出来ちゃいました。
爪が食い込んじゃったのね。
爪は短く切りましょう・・・。

拍手[0回]

97年5月入籍。引越し。6月に挙式。
それまで劇団の人々(大学生)としか交流が無かったので、方言がわからないことに気付いた。
標準語だと団地では目立った。若いこともあって、友達など出来なかった。
広場恐怖がよみがえり、スーパーに行くのもやっとだった。まだ免許も無くて不自由だった。
夫は優しかった。
具合が悪いときは寝ててよかった。この先、仕事もしなくてイイし、好きなことだけしていいよ。と言った。
両親は私が結婚したことで、病気は治ったと思い込んでいたので、そう思わせておくことにした。
主治医には相変わらず言いたいことが言えず、病院へは行かなくなった。

出産が近づいて、やっと夫に「子供の父親が誰かわからない」と告白した。数日無言だった夫は「それでも、自分の子として育てる」と言ってくれた。私は無事、長女を出産した。
育児は過酷だった。
疲れやすい自分の身体が疎ましかった。
おまけに、毎日一人だった。
間もなく二人目を妊娠。団地の主婦たちと挨拶はするものの、仲良くはなれず・・・。夫の母親は、なんとなく怖かった。長女の出産の時、本当は里帰りしたかったのだが義母がそうさせてくれなかった。だからといって義母が産後の手伝いをしてくれるわけではなかった。数日実家に帰るだけでも、実家に電話して「うちのkanaがお世話になります」と私の両親に言った。
両親は、少し傷ついた。
二人目はサスガに里帰りさせてくれた。
年子の育児は、とんでもなかった。記憶が全く無いのだ。
PDの人は年子を産まないほうがいい。激ヤセしてしまった。
少し会話が出来る人が団地内に見つかった。嬉しかった。育児サークルにも入った。
それでも、辛くて辛くて・・・芝居がしたかった。
夫に話してみた。すると、怖い顔で「家事も育児も手を抜かないなら、やってもいい」と言った。
あれ?と思った。
芝居を再会して、ミュージカルやらコンとやら、社会人劇団に入ったり、イベントに出たりテレビに出たりした。それがとても楽しくて、病気のことなんか忘れた。とても調子がよかった。何でも出来そうだった。
急に夫に「仕事、するだろ?」と言われて驚いた。夫は家を建てたいのだ。だから、私が働くのは当然だと言った。私は、家を建てたくなどなかった。でも、従わなくてはならなかった。
免許を取るために、実家に子供たちを連れて行き、滞在した。運転は私に合っていたようで、AT限定ということもあって、超短期間で免許が取れた。
免許を手にして、すぐにパートを始めた。
それでも、芝居は辞めなかった。病気になってからずっと、芝居は私を支えてくれていたのだ。
そんなことは、夫は知らない。劇団とは何も関係無い人だから。
ゆえに、私の活動が活発になればなるほど、機嫌が悪くなった。一緒に芝居をやろうと誘ったりもしたが、無理だった。ついに夫はキレるようになり、私は逃げた。その度に「もうしません」と言うのだが、繰り返した。
それで、私は悩みに悩んで、離婚を決意した。

離婚については「離婚と調停」の記事を参照してください。

離婚調停の期間、私の症状は最悪だった。それこそ、記憶に無いくらい。
かろうじて日記を書いてはいたのだが、PCごとオシャカになった。
豹変した夫が怖くて、家に帰れず、友人宅や車で寝たりして・・・どうしたらいいのか混乱していた。
発作ばかりだったし、泣いてばかりだった。
現在の夫となったダーが、隣にいてくれたけど、いただけだった。ホントにいるだけで・・・。でも、それに救われていた。生きることそのものが、怖くてたまらなかったのだ。自分が存在することそのものが恐怖で、地に足をつけていることが、重くてたまらなかった。死にたくて死にたくて・・・ダーが隣にいなかったら、死んでた。
調停中も、芝居は続けていたし、イベントの仕事もあったし、仲間と遊んだりもした。けど、身体の中が空洞だった。小さい頃からポーカーフェイスが得意だったから、平然とみえただろうけれど、ズタボロで、ホントにボロ雑巾だった。そこに居たのは、私の皮膚だけだ。
歩けなくなる時もあった。発作も涙も、止めようが無かった。
帰る家も失って・・・結婚した相手に、そんなことをされている事実を消したくて、ショックで・・・。
死にたかった。
長生きはしないと、決めた。

調停が終わって、一人になった。子供たちには年3回しか会えなくて、どうやって生きたらいいか、わからなかった。ダーがアパートを借りてくれて、そこで、毎日泣いて暮らした。
芝居も、出来なくなっていた。心がカラカラだったから、どんな感情も表現できなかった。
子供たちに会える日だけを目標に、生きることが、精一杯だった。

貯金がそこをついて、仕事を探した。
母に責められるので、実家には帰れなかった。(母は祖母に捨てられたと思い込んでいて、だから子供を捨てた私を許せないのだ。祖母を憎めなかった分、私を憎んでいた)
PDであることを言って、でも雇ってくれる会社があった。アパレル店員の仕事だ。
私が一番好きな仕事だった。
普通に働けるのか、わからなかった。けど、働くしかなかった。

休みの日は必ず発作だった。
仕事中も親子連れや子供を見ると、涙が出て、ヤバかった。ここは演技だ、と思った。店員の役をしている、と自分に暗示をかけて、仕事中は子供のことをあまり考えないようにした。
それからは、とりつかれたように働いた。
2ヶ月に1回は、朝から晩まで発作が止まらなくて、仕事を休んだが、とにかく働いた。
ダーの借りたアパートを解約して、自分でアパートを借りた。それで、さらに働いた。
仕事が向いていたらしく、上司に認められて店長代理になった。1ヶ月に196時間働いたこともあった。
一時期は、激ヤセして男遊びに狂った。アホになりたかった。なりさがってしまえば、全て「ダメ人間だから」と言えてしまうのではないかと思った。でも、続かなかった。
もうすぐ店長になるかもしれない、となった頃・・・姉にすすめられて行った県外の専門医にパニック障害に間違い無いと言われた。ショックだった。それまで11年、自分がそういう病気であると知らずに、数々の男たちに「重荷だ」と言われ、元夫にも「オレといて、どうして治らない!?」とキレられたりしたのだ。両親からも散々、気のせいだとか、情けない娘だとか言われて・・・。それが、今頃・・・。
何より、障害者だということがショックだった。
さらに、専門医がよこした数種類の薬すべてが合わなくて、体調が悪くなった。
急に思い立って、末期ガンで入院している祖母に会いに行った。
祖母の住む市に入ったとたん、何故か涙が止まらなくなった。ああ、祖母は長くないのだな、と思った。
祖母には離婚のことを言ってなかった。つか、私を姉だと思っていた。背中が痛いと言うので、さすってあげた。骨と皮だけになった背中が、冷たくて胸が詰まった。
少しして、祖母は亡くなった。大切な何かが、大きな何かが、消えてしまった。
同じ頃、叔父が自殺した。身の回りをきれいにして、自慢のヒゲを剃り、頭も丸めて。
私のしたかった、選択をした叔父・・・。
私の中の、何かが、崩れた。

完全に症状は悪化し、職場での些細なことが恐怖になり、そこへ向かうことも出来なくなった。
歩いて10分の職場に、30分かかってもたどり着けなかった。
引き止めていただいたけれど、辞職した。
収入が無くては一人暮らしも出来ない。
私は病気になってから初めて、両親と暮らすことになった。

実家は埼玉から栃木県に移住していた。
そこで、専門医ではなく近所の心療内科に通った。今まで通り軽い坑うつ剤の頓服のみで暮らした。
両親にとっても、私の病気を実際に見て知ることとなり、結果的にはヨカッタのだが、どうしても親権を譲ったことを責められて、辛かった。病気を目の当たりにしても、働けないことは理解できない父は「遊んでいないで働け」と言った。「オレのスネを見てみろ、こんなにかじられてガリガリだ。もうかじらないでくれ」と。
バイトの面接なども行ったのだが、PDのことを言うと、不採用になった。
実家で、両親のペースに合わせながら、自分の体調管理をするのは、難しかった。
8ヶ月経って、やっと、動きたくなった。
芝居をしよう。まず、そう思った。
実家のまわりには劇団が無かったので、姉の住む東京に行くことにした。

東京ではセミダブルのベッドの上が居候場所だった。
芝居はつまらなかった。PDのことは、最初に言っておいたのだが、特に気遣いは無く、むしろ気性が激しいリーダーにみんなが脅えているような状態で、最低だった。
稽古は夜なので、日中の仕事を探した。ユニクロに入った。ここでは、PDも快く受け入れてくれた。
東京では、PDはメジャーな病気だったし、無理をしないことが、きちんと自己管理できているという証だった。
とても働きやすかったので、しばらく働いてみることにした。バイトではなく準社員という形で。
どこまでやれるか、挑戦だった。ユニクロはアパレル業界でもキツくて有名だからだ。
噂どおり、仕事内容はハードだった。常にさらに上のレベルを求められた。1つ出来たら2つ出来て、2つ出来たなら3つ出来るのが当然、という考え方。慣れても、慣れても、楽にはならない。
以前と同じ、もしくは少ない8時間労働なのに、帰宅する頃には足がフラフラで、頭がホワホワした。
休日は寝っぱなしで、夜中に発作を起こすこともあったし、仕事中も何度もあった。
限界なんだなって、思った。この、週40時間労働では、他に何も出来ないな、と。
しばらくして、父から「一人で生きていってください」と言われた。「私ももう、年ですから、いつ死ぬかわからない。心配だから、一人で生きれるようになってください」と。
親心というか、勝手というか・・・。
ギリギリの労働で、一人暮らしとなったら、本当にいつ症状が悪化して仕事が出来なくなってもおかしくない。私は死を覚悟した。もう、誰にも頼れないのだから、働けなくなったら死ぬしかない、と。
そう思うことは、とても気が楽だった。「子供たちのために、苦しくても生きなくちゃ」と思うよりも「仕方が無いので、死にますか=3」と思うほうが、楽なのだ。単なる逃げだけど。
お金を貯めて、アパートの契約を済ませた頃、ダーから電話があった。一時期付き合っていたのだが、東京での芝居が終わった頃に、別れたはずだった。多分3月に。それから4ヶ月は経っていた。
電話帳から消してあったのだが、寝起きでぼんやりしていて、見慣れた番号だったので出てしまった。
お互いの近況報告などをして維持間ほど経ってから「家が出来たから・・・」と言われて、それが求婚だとわかって、大爆笑した。なんて面白いんだろう。と。
死ぬことを覚悟したばかりだったのに・・・。どうやら、まだ死ぬ時期ではないようだった。

そんなわけで、ダーの故郷に住んでいます。ダーの建てた一軒家に。
心療内科を探して、行ってはみたけれど「で、どうして欲しいの?」なんて言われて、それ以後どこにも行ってない。とりあえず、この県には専門医は居ない。マトモな精神科医もカウンセラーも居ないらしい。
いずれは探さなきゃならないけれど・・・。

走り書きのように、これまでの歩みを買いたので、後で付け加えることもあると思います。
特に、症状や、克服方法などは・・・。

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