忍者ブログ

★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

famouse saying
calender
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
counter
healing...
profile
☆HN☆
cana
☆WORK☆
接客業
☆HOBBY☆
芸術活動。ぐうたら。
☆SELF-INTRODUCTION☆
息子と二人暮らし。
故の独り言ブログ。
日常を楽しみ
おおらかになりたい。
人生もあと半分
まだ夢を捨てられない。
表現者になりたい。
comment
[08/21 絵里]
[05/16 ネコ]
[05/05 NONAME]
[05/01 NONAME]
[04/17 ネコ]
fortune
点取り占いブログパーツ
bar code
▼search in this blog!
FASHION
。○゜★♪☆♪★゜○ 。
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

日記があったので・・・時系列で書いていきます。

年が明けて、95年。
2月・・フランス旅行へと行った。母と姉との3人旅は、病気になる前のイタリア以来だった。
    楽しかった。フランスの空気は、とても肌に馴染むような感じだった。・・・が、母とはギクシャクした。

3月・・大学を中退することに決めた。

5月・・友人に紹介してもらって大学病院の精神科に通い始める。
    1時間程度のカウンセリングと軽い坑うつ剤を頓服で飲むようになる。
    短時間しか働けないので、夜のバイトを始める。知人に紹介してもらったスナック。
    恋人が、後輩に告白されて、密会していたことを知る。
    別れたり、話し合ったり・・・。階段を下りている途中で突然発作を起こす。
    劇団の遠足で激しい発作を起こす。(恋人を奪おうとした後輩の名を知ったから)涙と鼻水でぐちゃぐちゃ
    になりながら、呼吸は早いまま2時間ほど経過して、手足が痺れて硬直し、関節が痛み、恋人と友人に
   よってベッドに横になると、全身の関節が痛くて、気を失った。
    大変な1ヶ月だった。(今でも5月は苦手)

6月・・両親に手紙を書くが、本当のことは書けず。
    毎日、発作。恋人とはよりが戻るが、誘惑した後輩が「私は遊ばれた」と言ってみんなに同情されていた
    のが辛い日々。恋人も後輩を慰めるので、余計辛かった。

7月・・やはり、辛い状況。
    劇団の合宿に行くが、後輩の態度が・・・。ここでも、恋人は後輩をなぐさめる。
    漫画が入賞。賞金21万。
    姉からTEL「母さんがかわいそう」と泣いた。母が自分を責めているらしい。
    しかし、姉も実家は息苦しいのだと、打ち明けてくれた。

8月・・新幹線に乗れない。両親を呼び、大学病院の精神科へ。主治医に会わせる。
    病気に対する理解が得られたのかは、わからない。

9月・・友人たちと、飲んだり、泣いたり、考えたり、とっても青春して20歳になった。

10月・・恋人と別れる。同棲していたのだが、賞金21万でアパートを借りた。

11月・・引越し。恋人とは別れたりヨリを戻したり。
     私を愛していると言いながら、重荷だと言う。私が恋人を信じられないことが、仕方が無いとはいえ受け
     入れられない。甘えないように身構えると、発作も起きにくい。

年が明けて96年。
1月・・口座を作る。スナックでのバイトは続いている。恋人と別れたと知って、常連客が励ましてくれた。実は、
    時々ヨリを戻していたのだが・・・。

2月・・バイト中に発作を起こす。
    スナックのママの態度が変わる。「あんたみたいな病気のコはどこも雇わないでしょ」と言って一時も座
    らせてもらえない。あからさまなイジメだった。
    耐えられなくて辞めますと電話すると「散々良くしてやったのに!」と逆ギレされる。
    実家に電話して、号泣しながらお願いして、仕送りを許可される。(いつの間にか仕送りが止まっていた)
    母「結婚したら?」お見合い?
    姉と友達のように長電話する。初めてだったので、とても嬉しかった。
    自分が半狂乱で日本刀を振り回す夢を見る。刀の向こうには、アノ後輩。後輩の目に映った自分の顔
    は、右目がえぐられていた。恋人に電話して、もう二度とヨリは戻さないと告げる。

3月・・新しい彼氏と2週間で終わる。友達以上恋人未満の男が出現。意外と癒される。
    寂しいけれど、一人暮らしを満喫。自分だけの部屋は最高だ。

4月・・発作が止まらなくて、友人にTEL。おどろくほど発作が引く。
    元恋人と後輩と一緒に稽古するのが、たまらなくて・・・感情を抑えるために、しばしば壁を殴る。こぶしに
    アザが常に。 血が見たい、という衝動に駆られて壁を殴るようになる。

5月・・怒りを抑えられなくて、走って部屋に帰り、ハサミで手の甲を切る。流れ出る血を見て、安心する。
    それを見た先輩に説得され、恋人とヨリを戻す。
    劇団の遠足の帰り、電車に乗れず。実家に電話するが、何か怖い。

7月~8月・・実家に。日記ナシ。

9月・・友人たちの卒業旅行。私は電車に乗れないから、と参加を断わられた。悲しかった。
    症状が悪化する。

10月・・激しい発作の中で、叫ぶ。「きゃー」「助けておかぁさん」
     発作の後、楽しくなって手の甲を切る。肉が見えた。
     連日発作。発作の後は、混乱して、あるいはタガが外れて、おかしな行動をする。
     自分が狂う夢を見る。発作ばかりの毎日。主治医に言いたいことが言えない。
     母に手紙を書くが、病気のことを書こうとすると震える。やがて発作。
     アパートを引き払い、恋人の部屋に引っ越すが、別れる。

11月・・友人宅へ引越し。新しい恋人Aさんとデート。
     両親から「実家に帰って来い」「おまえは(友人の)邪魔をしている」といわれる。

年が明けて97年。
2月・・母から病気を「気にしすぎ」「仕送りはあと1年」と言われる。
    両親に手紙を書く。

3月・・手紙の返事。姉「ひどい」父「うれしい」母「抱きしめたい」(ぶるっとした)
    東京で元恋人から求婚。お断りする。
    父の教え子で精神科医の先生に会う。治らないと考えて共生するつもりだ、という私の考えに「それでい
    いと思います」との答え。さらに「人生には無駄なことは一つもありません」「これからあなたにとっては生
    きにくいと思うことが多くあるでしょうが、頑張ってください」と。感動した。
    山形への新幹線で発作。知らない男性に助けられる。

4月・・妊娠発覚。・・・おそらく、元恋人の子供・・・。言えないままAさんの求婚を受ける。

というわけで、結婚しました。

拍手[1回]

PR

衝撃的な過呼吸発作の後。。。
翌日もやはり登校途中で発作を起こして、帰宅。
その翌日も、その翌日も。
日に日に距離が短くなって、5駅で限界だったり、電車の音で、もうダメだったり。
自分自身も混乱していた。どうして、こんなことに?私の体はどうしちゃったんだろう?
答えを見つける行動力も思考力すらも、無かった。
しまいには部屋にとじこもってしまった私を、父は怒った。母は鼻で笑った。
理解してもらえないことが、どんなに苦痛か初めて知った。
食欲が減り、毎晩ふとんの中で発作を起こすようになった。
6月に入って、母が「病院に行ってみよう」と言い出した。
吐き気や動悸や嫌な気持ちを抑え、喋り続けつことで電車に耐えて、どうにか病院に着いた。
陰鬱とした「精神科」の待合室には、保護者同伴の子供や大人が数組、視線を下げたまま座っていた。
不思議な空間だった。
それまでの私の日常には無い空気だった。
それほど長く待つことなく、3つある診察室の真ん中の部屋に通された。
狭い部屋には医者の机と椅子が2つ。机の前に座った医者は大きくて太っていた。椅子が壊れそうだった。
あらかじめ記入していた用紙に目を通して、医者は興味なさそうに私に聞いた。
「今日は、何で来たの?」
「・・・電車です」
「なぁ~んだ。ふふっ。乗れるんじゃない。気のせいだよ」
医者は鼻で笑った。
その日までの自分の辛い時間が次々に蘇って、涙が出た。また、理解してもらえない。
私の涙を見て、医者はニヤニヤして言った。
「くやしいか?」
まるで、私が付いた嘘を見破ったぞ、と言いたげな、得意満面の表情だった。
医者が狸の置物に見えた。巨大な陶器のそれを、思い切りハンマーで殴って粉々にしたかった。
「一応、薬だしとくけどねー」
泣き続ける私を横目に見ながら、嬉しそうに医者は作業をした。

母の前では、涙を見せることが無かった私だから、診察室を出る時には、涙は止まっていた。
同時に、いろんな感情にもフタがされて、私は無表情に「気のせいだって」と母に報告した。
母は安堵のため息をついて「やっぱりね~!」と得意げに言った。
薬をもらって、それを飲み、ランチを食べて帰った。
医者の診断に、父も笑った。ほら見ろ、ちゃんと学校に行きなさい。とか何とか言った。
姉だけが、それは違うのではないかと、神経症の本を図書館で見つけてきてくれた。
けれど、特に何も出来なかった。

私は必死で友達に手紙を書いた。
けれど、返って来るのは「私なんか・・・」といった愚痴ばかりで、助けにならなかった。最後にダメ元で、高校生のときに絶交されたMに出してみた。返事より先に、電話がかかって来た。
彼女は山形の大学の医学部に進学していた。「いいところだよ、暮らしにおいで」手紙にはそう書いてあった。
それで、私は、あわてて荷造りをして、逃げるように山形へと向かう新幹線に乗り込んだ。
久しぶりに会ったMは、新幹線の中で、あっさりと私を許してくれた。7月半ばのことだった。

生まれて初めて山形に立った。
まだ、地図上のどこに山形があるのか、知らなかった。ともかく東北なのに暑くて驚いた。
食欲が無くなっていた私は、一日にドーナツの欠片と水分だけで動いていたので、その暑さはこたえた。
けれど、誰一人として早歩きをしていない、のんびりとした雰囲気と広い空に感動した。

Mのアパートは古いけど2部屋あって、そこに私は居候することになった。2週間の予定だった。
Mは大学のサークルで芝居をやっているという。その公演が迫っていて、毎日稽古があると言う。
一人で初めての町を楽しめる余裕は私には無かった。ので、毎日見学させてもらった。
そのサークルは、コメディー芝居を好み、なんと団員のほとんどが関東出身だった。けれど、なんとも地味な服装の人々で、当時の流行服(ピタTにマイクロミニのスカート)だった私は、ちょっとだけチヤホヤされた。
たまたま、GWに投稿した漫画が7万円の賞金を取り、そのお金でビデオカメラを購入していた私は、稽古を撮影する係りになった。(便利に使われただけ、とも言う)毎日、稽古の後は誰かのアパートでビデオ鑑賞と反省会。あっという間に本番になり、本番も私が撮影だった。
そんなこんなで、仲良くなって、合宿にまで参加することになった。
そこで、まぁ、若者にありがちな恋愛のアレコレがあって・・・人生初の恋人が出来てしまった。
2週間の予定を延長し、彼のアパートに転がり込んだのだった。

恋人と暮らし、芝居三昧の日々の中で、だんだんと食欲を取り戻し、電車にも乗らなくいい生活は快適だった。
一度、実家に帰り、もう戻らないつもりで荷造りをした。
夜中に彼氏と長電話していたので、父に「私の稼いだ金で遊んでるのか!?」と怒鳴られたのだ。
私の生まれ育った家は父の家だった。私の家ではなかったのだ。
山形に行くことを両親は嫌がった。私も、少し迷った。そんな時に突然、祖母から電話があった。祖母は私に(電話なのに声をひそめて)「好きなようにしなさい」と言ってくれた。
その言葉は、祖母自身がかつて背中を押してもらった言葉だった、と、後に知った。

山形での生活は、病気との闘いだった。
食欲は戻っても、広場恐怖や発作はあった。とくに、発作はいつどこで起きるか分からなくなっていた。
ちょっとした不安を感じても発作になるような状態で、でも、バイトをした。
2ヶ月で辞めた。

自分なりに、どうして発作が起きるのか、外出することが苦痛だったりするのは何故か、考えて、その原因は育った環境にあるのではないかと、両親に手紙を書いた。
それに対して、姉は怒り狂った手紙をよこした。父は反省した。母は、よくわからない手紙だった。
それぞれに、考えてくれたのだが、怒られるのも謝られるのも、辛かった。
母からは半月後に手紙が来た。寂しい、ショックだ、という内容に私は身動きがとれなくなった。
ともあれ、一緒に生活が出来ないということは、どうにか理解してもらえて、仕送りをもらいながら、療養ということで、お互いに納得した。

発作や体力の低下や対人や広場恐怖という症状に振り回されながら、劇団の人たちと、よく遊び、芝居をし、時には実家にも帰り、少しずつ不安が遠のいて行った。

拍手[1回]

話せば長くなる。・・・話せば長くなる。・・・つまり、書いても長い。

あれは・・・1994年のGW直前でした・・・。
当時18歳の私は埼玉の南端から神奈川の北西あたりの某美術短大に通っていました。
東京を横断する、片道2時間30分。
入学前には、アパートに一人暮らしっていう話だったのだが
あっさりと嘘を付く母に、あっさりと嘘を付かれたのであった。
登下校だけで、かなり疲れる日々。
環境が変わった事や、中高一貫教育の三流私立女子高を卒業間近に、友人一同と縁が切れ
・・・そのショックもあるし、母に嘘を付かれたし、父にもコタツの中で蹴られるっていう、変な連動があって
精神的にクタクタだったのかもしれない。

私自身は、気まぐれに選んだ芸術学という分野が、以外にも楽しそうで
今後どのようにカリキュラムを組んで、将来に繋げようかと、ワクワクしていた。

そんなある日の下校中に、突然吐き気に襲われた。
ヤバイと思って、電車から飛び降りたのは、中高6年間通い続けた馴染みの駅だった。
あまり、吐くことが無い・・・いや、むしろそれまで吐いたのなんて2回くらいしかなくて、吐くに吐けない。
冷や汗がダラダラ出て、手足が痺れてしまった。
ホームのベンチとトイレを往復しながら、どんどん手足が動かなくなってゆく。
これは、まずい。助けを求めなければ・・・しかし、駅は小さい・・・。
咄嗟に思いついたのが、駅から歩いていける、中高時代の友人の家。
改札を出て、ヨロヨロ歩いて、玄関前にたどり着きドアフォンを鳴らした。
快く助けてくれて、泊まらせてくれた。

翌日、普通に電車に乗って自宅へと帰った。
その日から、GWだったのだが、レポート作成のために2つほど美術展に行かなくてはならず
母と共に出かけた。
また具合が悪くなるのではないかと、ヒヤヒヤだった。
GWが開けて、登校・・・。
短大の最寄り駅まで、あと3つってところで、急に息苦しくなって、電車を降りた。
冷や汗と動悸と息苦しさ。
今度は大きな駅だったので、駅員を捕まえて、休ませて欲しいと頼んだ。
駅員に連れられて救護室に入った。
学校の保健室のようなベッドが3台置かれていた。
他にも寝ている人がいて、苦しそうな息や、咳が聞こえた。
横になって、眠れないまま、1時間が過ぎた。
私以外の人は、みんな出て行った。
救護室の隣は、駅員の休憩室だったようで、隣の部屋から話し声が聞こえていた。
その声の一つがぶっきらぼうに言った。
「救護室、まだいるの?」
鼻で笑うような言い方で、とても嫌だった。
私はふらつきながら起き上がり、外へと出た。
近くにいた駅員が「だいじょうぶ?」と声をかけて来た。顔色が悪かったらしい。
私は「大丈夫です」と、その駅員を見ずに言って、その場を離れた。
一生懸命頭を働かせて、母に電話することを思いついた。
車で迎えに来てもらおう。
母に電話すると、急に涙が出た。
オイオイ泣きながら迎えに来てと言う私に、母は若干あきれて、でも来てくれた。

母が来るまでの約2時間は地獄のようだった。
ホーム上のベンチに移動して、泣きじゃくる私を、誰もが笑って指をさした。
キヨスクのオバチャンも、学生も、リーマンも。
一人だけ、当時は巨大だった携帯電話とジャンプを持ったリーマンが「大丈夫?」と声をかけてくれた。
しゃくり上げていたので、しゃべるのは一苦労だったが「母が来るので大丈夫」と、どうにか伝えると、私の視界から消えてしまった。
泣きすぎて、まぶたが腫れて、視界が非常に狭かったのだ。

やっとたどり着いた母は、私の様子を見て、すっかり仰天した。
いわゆる、過呼吸発作を起こしていたのだが、体内の酸素濃度が上がっている状態で
手も足も自由にならなかった。毛細血管に血が行かなくなるとか、関節が軋む、とか、そんな感じ。
さんざん白い目で見られて、他人の視線が気になってしょうがなかった。
他人の白い目が、笑い声が、怖くてたまらなかった。

しばらくして、呼吸が楽になり、母と電車に乗って東京駅へと行った。
そこで美味しいランチを食べて、にこやかに帰宅した。
まるで、何も無かったかのように。

これが、私と過呼吸の長い付き合いの始まりだった。
この経験が無かったら、きっと、悲しい出来事は多くなかったに違いない。

拍手[1回]