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★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

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衝撃的な過呼吸発作の後。。。
翌日もやはり登校途中で発作を起こして、帰宅。
その翌日も、その翌日も。
日に日に距離が短くなって、5駅で限界だったり、電車の音で、もうダメだったり。
自分自身も混乱していた。どうして、こんなことに?私の体はどうしちゃったんだろう?
答えを見つける行動力も思考力すらも、無かった。
しまいには部屋にとじこもってしまった私を、父は怒った。母は鼻で笑った。
理解してもらえないことが、どんなに苦痛か初めて知った。
食欲が減り、毎晩ふとんの中で発作を起こすようになった。
6月に入って、母が「病院に行ってみよう」と言い出した。
吐き気や動悸や嫌な気持ちを抑え、喋り続けつことで電車に耐えて、どうにか病院に着いた。
陰鬱とした「精神科」の待合室には、保護者同伴の子供や大人が数組、視線を下げたまま座っていた。
不思議な空間だった。
それまでの私の日常には無い空気だった。
それほど長く待つことなく、3つある診察室の真ん中の部屋に通された。
狭い部屋には医者の机と椅子が2つ。机の前に座った医者は大きくて太っていた。椅子が壊れそうだった。
あらかじめ記入していた用紙に目を通して、医者は興味なさそうに私に聞いた。
「今日は、何で来たの?」
「・・・電車です」
「なぁ~んだ。ふふっ。乗れるんじゃない。気のせいだよ」
医者は鼻で笑った。
その日までの自分の辛い時間が次々に蘇って、涙が出た。また、理解してもらえない。
私の涙を見て、医者はニヤニヤして言った。
「くやしいか?」
まるで、私が付いた嘘を見破ったぞ、と言いたげな、得意満面の表情だった。
医者が狸の置物に見えた。巨大な陶器のそれを、思い切りハンマーで殴って粉々にしたかった。
「一応、薬だしとくけどねー」
泣き続ける私を横目に見ながら、嬉しそうに医者は作業をした。

母の前では、涙を見せることが無かった私だから、診察室を出る時には、涙は止まっていた。
同時に、いろんな感情にもフタがされて、私は無表情に「気のせいだって」と母に報告した。
母は安堵のため息をついて「やっぱりね~!」と得意げに言った。
薬をもらって、それを飲み、ランチを食べて帰った。
医者の診断に、父も笑った。ほら見ろ、ちゃんと学校に行きなさい。とか何とか言った。
姉だけが、それは違うのではないかと、神経症の本を図書館で見つけてきてくれた。
けれど、特に何も出来なかった。

私は必死で友達に手紙を書いた。
けれど、返って来るのは「私なんか・・・」といった愚痴ばかりで、助けにならなかった。最後にダメ元で、高校生のときに絶交されたMに出してみた。返事より先に、電話がかかって来た。
彼女は山形の大学の医学部に進学していた。「いいところだよ、暮らしにおいで」手紙にはそう書いてあった。
それで、私は、あわてて荷造りをして、逃げるように山形へと向かう新幹線に乗り込んだ。
久しぶりに会ったMは、新幹線の中で、あっさりと私を許してくれた。7月半ばのことだった。

生まれて初めて山形に立った。
まだ、地図上のどこに山形があるのか、知らなかった。ともかく東北なのに暑くて驚いた。
食欲が無くなっていた私は、一日にドーナツの欠片と水分だけで動いていたので、その暑さはこたえた。
けれど、誰一人として早歩きをしていない、のんびりとした雰囲気と広い空に感動した。

Mのアパートは古いけど2部屋あって、そこに私は居候することになった。2週間の予定だった。
Mは大学のサークルで芝居をやっているという。その公演が迫っていて、毎日稽古があると言う。
一人で初めての町を楽しめる余裕は私には無かった。ので、毎日見学させてもらった。
そのサークルは、コメディー芝居を好み、なんと団員のほとんどが関東出身だった。けれど、なんとも地味な服装の人々で、当時の流行服(ピタTにマイクロミニのスカート)だった私は、ちょっとだけチヤホヤされた。
たまたま、GWに投稿した漫画が7万円の賞金を取り、そのお金でビデオカメラを購入していた私は、稽古を撮影する係りになった。(便利に使われただけ、とも言う)毎日、稽古の後は誰かのアパートでビデオ鑑賞と反省会。あっという間に本番になり、本番も私が撮影だった。
そんなこんなで、仲良くなって、合宿にまで参加することになった。
そこで、まぁ、若者にありがちな恋愛のアレコレがあって・・・人生初の恋人が出来てしまった。
2週間の予定を延長し、彼のアパートに転がり込んだのだった。

恋人と暮らし、芝居三昧の日々の中で、だんだんと食欲を取り戻し、電車にも乗らなくいい生活は快適だった。
一度、実家に帰り、もう戻らないつもりで荷造りをした。
夜中に彼氏と長電話していたので、父に「私の稼いだ金で遊んでるのか!?」と怒鳴られたのだ。
私の生まれ育った家は父の家だった。私の家ではなかったのだ。
山形に行くことを両親は嫌がった。私も、少し迷った。そんな時に突然、祖母から電話があった。祖母は私に(電話なのに声をひそめて)「好きなようにしなさい」と言ってくれた。
その言葉は、祖母自身がかつて背中を押してもらった言葉だった、と、後に知った。

山形での生活は、病気との闘いだった。
食欲は戻っても、広場恐怖や発作はあった。とくに、発作はいつどこで起きるか分からなくなっていた。
ちょっとした不安を感じても発作になるような状態で、でも、バイトをした。
2ヶ月で辞めた。

自分なりに、どうして発作が起きるのか、外出することが苦痛だったりするのは何故か、考えて、その原因は育った環境にあるのではないかと、両親に手紙を書いた。
それに対して、姉は怒り狂った手紙をよこした。父は反省した。母は、よくわからない手紙だった。
それぞれに、考えてくれたのだが、怒られるのも謝られるのも、辛かった。
母からは半月後に手紙が来た。寂しい、ショックだ、という内容に私は身動きがとれなくなった。
ともあれ、一緒に生活が出来ないということは、どうにか理解してもらえて、仕送りをもらいながら、療養ということで、お互いに納得した。

発作や体力の低下や対人や広場恐怖という症状に振り回されながら、劇団の人たちと、よく遊び、芝居をし、時には実家にも帰り、少しずつ不安が遠のいて行った。

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