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★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

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97年5月入籍。引越し。6月に挙式。
それまで劇団の人々(大学生)としか交流が無かったので、方言がわからないことに気付いた。
標準語だと団地では目立った。若いこともあって、友達など出来なかった。
広場恐怖がよみがえり、スーパーに行くのもやっとだった。まだ免許も無くて不自由だった。
夫は優しかった。
具合が悪いときは寝ててよかった。この先、仕事もしなくてイイし、好きなことだけしていいよ。と言った。
両親は私が結婚したことで、病気は治ったと思い込んでいたので、そう思わせておくことにした。
主治医には相変わらず言いたいことが言えず、病院へは行かなくなった。

出産が近づいて、やっと夫に「子供の父親が誰かわからない」と告白した。数日無言だった夫は「それでも、自分の子として育てる」と言ってくれた。私は無事、長女を出産した。
育児は過酷だった。
疲れやすい自分の身体が疎ましかった。
おまけに、毎日一人だった。
間もなく二人目を妊娠。団地の主婦たちと挨拶はするものの、仲良くはなれず・・・。夫の母親は、なんとなく怖かった。長女の出産の時、本当は里帰りしたかったのだが義母がそうさせてくれなかった。だからといって義母が産後の手伝いをしてくれるわけではなかった。数日実家に帰るだけでも、実家に電話して「うちのkanaがお世話になります」と私の両親に言った。
両親は、少し傷ついた。
二人目はサスガに里帰りさせてくれた。
年子の育児は、とんでもなかった。記憶が全く無いのだ。
PDの人は年子を産まないほうがいい。激ヤセしてしまった。
少し会話が出来る人が団地内に見つかった。嬉しかった。育児サークルにも入った。
それでも、辛くて辛くて・・・芝居がしたかった。
夫に話してみた。すると、怖い顔で「家事も育児も手を抜かないなら、やってもいい」と言った。
あれ?と思った。
芝居を再会して、ミュージカルやらコンとやら、社会人劇団に入ったり、イベントに出たりテレビに出たりした。それがとても楽しくて、病気のことなんか忘れた。とても調子がよかった。何でも出来そうだった。
急に夫に「仕事、するだろ?」と言われて驚いた。夫は家を建てたいのだ。だから、私が働くのは当然だと言った。私は、家を建てたくなどなかった。でも、従わなくてはならなかった。
免許を取るために、実家に子供たちを連れて行き、滞在した。運転は私に合っていたようで、AT限定ということもあって、超短期間で免許が取れた。
免許を手にして、すぐにパートを始めた。
それでも、芝居は辞めなかった。病気になってからずっと、芝居は私を支えてくれていたのだ。
そんなことは、夫は知らない。劇団とは何も関係無い人だから。
ゆえに、私の活動が活発になればなるほど、機嫌が悪くなった。一緒に芝居をやろうと誘ったりもしたが、無理だった。ついに夫はキレるようになり、私は逃げた。その度に「もうしません」と言うのだが、繰り返した。
それで、私は悩みに悩んで、離婚を決意した。

離婚については「離婚と調停」の記事を参照してください。

離婚調停の期間、私の症状は最悪だった。それこそ、記憶に無いくらい。
かろうじて日記を書いてはいたのだが、PCごとオシャカになった。
豹変した夫が怖くて、家に帰れず、友人宅や車で寝たりして・・・どうしたらいいのか混乱していた。
発作ばかりだったし、泣いてばかりだった。
現在の夫となったダーが、隣にいてくれたけど、いただけだった。ホントにいるだけで・・・。でも、それに救われていた。生きることそのものが、怖くてたまらなかったのだ。自分が存在することそのものが恐怖で、地に足をつけていることが、重くてたまらなかった。死にたくて死にたくて・・・ダーが隣にいなかったら、死んでた。
調停中も、芝居は続けていたし、イベントの仕事もあったし、仲間と遊んだりもした。けど、身体の中が空洞だった。小さい頃からポーカーフェイスが得意だったから、平然とみえただろうけれど、ズタボロで、ホントにボロ雑巾だった。そこに居たのは、私の皮膚だけだ。
歩けなくなる時もあった。発作も涙も、止めようが無かった。
帰る家も失って・・・結婚した相手に、そんなことをされている事実を消したくて、ショックで・・・。
死にたかった。
長生きはしないと、決めた。

調停が終わって、一人になった。子供たちには年3回しか会えなくて、どうやって生きたらいいか、わからなかった。ダーがアパートを借りてくれて、そこで、毎日泣いて暮らした。
芝居も、出来なくなっていた。心がカラカラだったから、どんな感情も表現できなかった。
子供たちに会える日だけを目標に、生きることが、精一杯だった。

貯金がそこをついて、仕事を探した。
母に責められるので、実家には帰れなかった。(母は祖母に捨てられたと思い込んでいて、だから子供を捨てた私を許せないのだ。祖母を憎めなかった分、私を憎んでいた)
PDであることを言って、でも雇ってくれる会社があった。アパレル店員の仕事だ。
私が一番好きな仕事だった。
普通に働けるのか、わからなかった。けど、働くしかなかった。

休みの日は必ず発作だった。
仕事中も親子連れや子供を見ると、涙が出て、ヤバかった。ここは演技だ、と思った。店員の役をしている、と自分に暗示をかけて、仕事中は子供のことをあまり考えないようにした。
それからは、とりつかれたように働いた。
2ヶ月に1回は、朝から晩まで発作が止まらなくて、仕事を休んだが、とにかく働いた。
ダーの借りたアパートを解約して、自分でアパートを借りた。それで、さらに働いた。
仕事が向いていたらしく、上司に認められて店長代理になった。1ヶ月に196時間働いたこともあった。
一時期は、激ヤセして男遊びに狂った。アホになりたかった。なりさがってしまえば、全て「ダメ人間だから」と言えてしまうのではないかと思った。でも、続かなかった。
もうすぐ店長になるかもしれない、となった頃・・・姉にすすめられて行った県外の専門医にパニック障害に間違い無いと言われた。ショックだった。それまで11年、自分がそういう病気であると知らずに、数々の男たちに「重荷だ」と言われ、元夫にも「オレといて、どうして治らない!?」とキレられたりしたのだ。両親からも散々、気のせいだとか、情けない娘だとか言われて・・・。それが、今頃・・・。
何より、障害者だということがショックだった。
さらに、専門医がよこした数種類の薬すべてが合わなくて、体調が悪くなった。
急に思い立って、末期ガンで入院している祖母に会いに行った。
祖母の住む市に入ったとたん、何故か涙が止まらなくなった。ああ、祖母は長くないのだな、と思った。
祖母には離婚のことを言ってなかった。つか、私を姉だと思っていた。背中が痛いと言うので、さすってあげた。骨と皮だけになった背中が、冷たくて胸が詰まった。
少しして、祖母は亡くなった。大切な何かが、大きな何かが、消えてしまった。
同じ頃、叔父が自殺した。身の回りをきれいにして、自慢のヒゲを剃り、頭も丸めて。
私のしたかった、選択をした叔父・・・。
私の中の、何かが、崩れた。

完全に症状は悪化し、職場での些細なことが恐怖になり、そこへ向かうことも出来なくなった。
歩いて10分の職場に、30分かかってもたどり着けなかった。
引き止めていただいたけれど、辞職した。
収入が無くては一人暮らしも出来ない。
私は病気になってから初めて、両親と暮らすことになった。

実家は埼玉から栃木県に移住していた。
そこで、専門医ではなく近所の心療内科に通った。今まで通り軽い坑うつ剤の頓服のみで暮らした。
両親にとっても、私の病気を実際に見て知ることとなり、結果的にはヨカッタのだが、どうしても親権を譲ったことを責められて、辛かった。病気を目の当たりにしても、働けないことは理解できない父は「遊んでいないで働け」と言った。「オレのスネを見てみろ、こんなにかじられてガリガリだ。もうかじらないでくれ」と。
バイトの面接なども行ったのだが、PDのことを言うと、不採用になった。
実家で、両親のペースに合わせながら、自分の体調管理をするのは、難しかった。
8ヶ月経って、やっと、動きたくなった。
芝居をしよう。まず、そう思った。
実家のまわりには劇団が無かったので、姉の住む東京に行くことにした。

東京ではセミダブルのベッドの上が居候場所だった。
芝居はつまらなかった。PDのことは、最初に言っておいたのだが、特に気遣いは無く、むしろ気性が激しいリーダーにみんなが脅えているような状態で、最低だった。
稽古は夜なので、日中の仕事を探した。ユニクロに入った。ここでは、PDも快く受け入れてくれた。
東京では、PDはメジャーな病気だったし、無理をしないことが、きちんと自己管理できているという証だった。
とても働きやすかったので、しばらく働いてみることにした。バイトではなく準社員という形で。
どこまでやれるか、挑戦だった。ユニクロはアパレル業界でもキツくて有名だからだ。
噂どおり、仕事内容はハードだった。常にさらに上のレベルを求められた。1つ出来たら2つ出来て、2つ出来たなら3つ出来るのが当然、という考え方。慣れても、慣れても、楽にはならない。
以前と同じ、もしくは少ない8時間労働なのに、帰宅する頃には足がフラフラで、頭がホワホワした。
休日は寝っぱなしで、夜中に発作を起こすこともあったし、仕事中も何度もあった。
限界なんだなって、思った。この、週40時間労働では、他に何も出来ないな、と。
しばらくして、父から「一人で生きていってください」と言われた。「私ももう、年ですから、いつ死ぬかわからない。心配だから、一人で生きれるようになってください」と。
親心というか、勝手というか・・・。
ギリギリの労働で、一人暮らしとなったら、本当にいつ症状が悪化して仕事が出来なくなってもおかしくない。私は死を覚悟した。もう、誰にも頼れないのだから、働けなくなったら死ぬしかない、と。
そう思うことは、とても気が楽だった。「子供たちのために、苦しくても生きなくちゃ」と思うよりも「仕方が無いので、死にますか=3」と思うほうが、楽なのだ。単なる逃げだけど。
お金を貯めて、アパートの契約を済ませた頃、ダーから電話があった。一時期付き合っていたのだが、東京での芝居が終わった頃に、別れたはずだった。多分3月に。それから4ヶ月は経っていた。
電話帳から消してあったのだが、寝起きでぼんやりしていて、見慣れた番号だったので出てしまった。
お互いの近況報告などをして維持間ほど経ってから「家が出来たから・・・」と言われて、それが求婚だとわかって、大爆笑した。なんて面白いんだろう。と。
死ぬことを覚悟したばかりだったのに・・・。どうやら、まだ死ぬ時期ではないようだった。

そんなわけで、ダーの故郷に住んでいます。ダーの建てた一軒家に。
心療内科を探して、行ってはみたけれど「で、どうして欲しいの?」なんて言われて、それ以後どこにも行ってない。とりあえず、この県には専門医は居ない。マトモな精神科医もカウンセラーも居ないらしい。
いずれは探さなきゃならないけれど・・・。

走り書きのように、これまでの歩みを買いたので、後で付け加えることもあると思います。
特に、症状や、克服方法などは・・・。

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