自分に自信が無さ過ぎる、と上司に言われた。
もちろん、その通りだと思う。
何を持ってして、一般的と言うのか定かではないが、統計があったとしたら大多数の親が子供を褒めて伸ばす教育をしていることだろう。
それが良いのか悪いのかは、褒め方にもよるのだろうけれど、とにかく何でも褒められて育つと、何も出来ていないのに自信だけはたっぷりの困った大人になるものなんじゃないかと、最近思うようになった。
私は真逆の、褒められない育て方によって自信のない大人になった一つの悪い例だ。
何を頑張っても、母は姉しか見ていないし、父は自分の抽象画に夢中だった。テストで100点を取っても、小学校の教諭だった母には「当たり前でしょう?100点取れるように出来てるのよ」と言われた。
毎回そう言われていたので、特に酷く傷ついた、というような記憶は無い。が、少しでも自分を見て欲しいと思っていたのか、中学受験という選択肢を与えられた時、姉は選ばなかった受験の道を迷わず選んだ。
当時はまだ中学受験はメジャーではなく、受験する子は200人中10人もいなかった。当然、成績優秀者ばかりが集まる塾の中で、私は初めて自分がバカなんだと知った。
驚くべき頭脳を持った人間が、普通に自分の目の前にいて、しかも保育園に入る前のママさん保育(保育士が自宅で少人数の赤ちゃんを保育するシステム)で一緒だった男の子が、開成に合格した。
私はと言えば、中の中ですらギリギリ圏内の下だった。おまけに立地と制服で選んだ楽々合格圏内の学校に落ちて、滑り止めで第一希望よりも上の学校を受けて合格したという・・・なんだかよくわからないけど、結果的には第一志望よりも偏差値の高い中学に入れたのだ。が、しかし・・・母は褒めてはくれなかったし、自慢もしてくれなかった。
地元の中学から名高い進学校へ進んでいた姉と比較して「この子は、私立なんだけどね~とんでもない三流で」と笑うのだった。
私立の中学で、私の価値観はざっくりと否定された。
「住む世界が違う」という言葉を肌で実感し、女子だけの異質な雰囲気に完全に飲まれていた。
褒められなかったことで、勉強に対する意欲は無くなり、趣味を掘り下げる毎日だったので中学三年には「あんたの成績はワニだわ。はいつくばって起き上がらない!」と言われた。なかなかの名言。
それから、友達との関係も上手くいかなくなり、何だかわからないけど空回っていた頃、私は生まれて始めての白昼夢を見る。
視界一面に漫画のようなくるんくるんした雲があり、徐々にそれらが左右にはけていくと、そこには私の両手があり、それぞれに光る珠を持っている。片方は「変われる自分」片方は「変われない自分」。
それで何かが解決したかと言うと、何も解決しなかった。その時は。
高校に進学すると、すぐに大学の話になった。
行く気の無かった私に父は志望校を押し付けるので、私は何だか全てがどうでもよくなって、映像とかデザインをやりたかったのに定員割れしている芸術学コースを見つけて、そこへ入った。
えらく遠い学校で、片道2時間15分の通学だった。最初は1人暮らしをさせてくれるとのことだったが、あっさり母に騙された。父はよくわからない苛立ちから、私を蹴飛ばした。
ああ、親ってのは、ただのオッサンとババアなんだな、と判ってしまった18の春、それは起動した。
私の中に長いこと埋もれていた機能・・・「パニック障害」だった。
目の前で過呼吸発作を起こす私を見ても、母はそれを受け入れなかった。
父は「お前が弱いからだ」と怒鳴った。
私という存在に対する親からの完全なる否定だった。
今思えば、よく発狂せずに済んだものだと思う。
たまたま、まだ認知度が低い病気だったために、医者にも「気のせいだよ」と笑われた。
そのときに描いた漫画がある。
毎日、父に「学校へ行け」と叱られ、母からは笑われ、それに何の反応もせずに耐え、夜中に布団を口いっぱいに噛んで泣く、という生活が1ヶ月。
完全に「自分」というものが崩壊していた。それまで蓄積した少しの自信とか、自分らしさとかが、かさぶたのように剥がれていって全身に小さな傷が増えていくような感じだった。
痛いのに、痛いとは言えないから、痛みが何なのかわからなくなっていく。
それと同時に感情も消えていくようだった。
このままでは、飼い猫か自分を殺してしまいそうだったので、手当たり次第に旧友に手紙を書いたが、誰も助けてくれなかった。
更なる絶望を舐め始めた頃に、やっと救いの手が伸びて、私は山形に飛んで行った。
そこで、やっと治療を受け、友人や恋人も出来て少しずつ少しずつ「自分」を再構築していった。
だけどその進みはゾウガメよりも遅くて、自分でもイライラしたし、周りの人にも沢山迷惑をかけた。
再構築中の私は脆くて、ちょっとしたことで、すぐに崩壊した。
3年もの間、両親には「山形で遊んでいる」と言われながら、再構築をするしかなかった。
濃い3年だった。友人や恋人の部屋に居候して、バイトするけど続かなかったり、でも芝居だけは大好きで頑張れたり、恋人が浮気してボロボロになったり、自分も浮気してみたり、漫画で賞を取って賞金でアパート借りたけど、バイト先で発作起こして虐められて辞めて、手のひらの100円玉を見つめて泣いて・・・でも死にたくは無かったから親に電話して懇願して仕送りもらって・・・。
病院に親を連れて行って、医者に説明してもらったこともあるのだが、やっぱり納得出来ない様で、ただ医者の言った「結婚すれば治るかも」って言葉だけ信じて、私の結婚式に「もう治っただろ?」なんて言った。
その頃にはもう、親を「他人」と思うほうが楽だなって考えだった。
初めての結婚は21歳で、妊娠がきっかけだった。
とにかく両親は相手が公務員であることに喜んだ。自分たちと同業だからだ。
「公務員」の全てが「いい人」という考えは、してはいけない。
彼の結婚時の約束は「好きなことをしていればいい、仕事もしなくていい」だったのだが、二人目の子供が歩き出す頃には「お前、働くよな?」と言われた。
気付けば、その頃はもう彼に命令しかされなくなっていた。
運転免許を取って、パートで働き、命令され怒られながら家事と育児をして、それをやることを条件に芝居を続けていた。
思いのほか芝居は順調で、面白い企画がいろいろ私の前にやってきていた。
それが、彼は気に入らなかったようで。
キレるようになった。
物を乱暴に扱い、ドアを乱暴に開閉し、でも、何も言わない。ただ、子供たちを叱る。まだ幼い子にガミガミ怒る。立たせたまま怒る。それが2~3時間も続くので子供たちは立ったまま寝てしまうほどだった。
私は何も言えなかった。止める事も出来なかった。
だから、そうなると必ず実家に逃げた。
でも、両親は私の話を信じなくて、5日もすると彼が迎えにきて「二度としない」と泣くのだ。
そんなことが1年の間に3回あって、私は離婚を決意した。
しかし、両親は助けてくれなかった。
子供たちと実家に住みたいと言うと、母は「お父さんが許さない」と言った。
子供たちを連れ去られ、調停になった時には母が「お父さんに土下座すれば弁護士雇ってくれるわよ」と楽しげに言った。
私は絶望した。
二度目の否定だった。
結局、子供たちを取り戻せなかった。
私には持病があり、被害妄想だと調停人は決め付けた。おまけに収入も不安定では公務員の彼に勝てはしない。調停には、偏見がある。義理人情は無い。
そして、運悪くその頃はまだ「モラルハラスメント」という言葉も無く「母親は親権を持つべき」という考えも強くは無かった。
パニック障害になった時と同じだ。
私の人生は世間を先取りしすぎなのだ。
パニック障害もモラルハラスメントも、もっと世に出回っている言葉だったなら、人生はきっと違っていた!
だけど、仕方無い。
そう思えるまでに何年もかかった。
パニック障害は再発して私を苦しめた。
実家に引きこもったりもしたが、両親の酷い言葉をやり過ごすのに疲れてしまい、東京の姉の家に居候した。
けど、やっぱりそこも私の居場所では無かった。
母が姉に家と店を買うと言い出した。私は東京の家をもらえると思った。
東京の家は父が買ったもので、姉は管理人として住んでいたからだ。
しかし、東京の家を売って姉に新しい家を買うと知ったとき、必死で前向きに考えて自立しようとしたのだが、不安で出来なかった。
あせって再婚した。
でも、失敗だった。
その人のことは好きだったけれども、さすがに子供を産んですぐに引きこもられたら、たまらない。
出産後まだ数日なのに性行為を求められても無理だし、何度説明しても、下着に手を入れられたら怒り狂うのは当然だと思う。
けれど、その人は「俺を否定した」と言うのだ。
さすがに性行為を求められたことなど言えるはずも無く、私はその人の家族に酷い人間扱いされた。
未満児をかかえて、それでも出来る限りのことをした。
引きこもりを家から出して、生活環境を変えてみたり、職安に行ったり、ドライブしてみたり。
その人の家族は、全くもってノータッチだった。
病院に連れて行きたいと言っても協力してくれなかった。
離婚すると言ったときも、その人の母親は「私はどうしたらいいの?」と泣いた。
バカなんだろうな、と思ってしまった。
こういう状況の場合、一番かわいそうなのはまだ喋れもしない子供なのに。
父親が引きこもりだって知ったら、どうなるんだろう。
2度目の離婚は前代未聞の引きこもりとの離婚。
離婚届も書いてもらえないので、調停を申し立て。
調停人も「初めてのことなので・・・今日で終わりにしましょう」と戸惑っていた。
驚いたのは、この調停の前日にその人の両親が来て「どうにかならないか」と言ったのだそうだ。
その「どうにか」の意味が全くわからないんだけど。
相手方が来ないので、調停は不成立。
仕方がなく、裁判へ。
土下座して父にお金を頂いて弁護士を雇った。
ここでもまた「前例が無い」と言われ、裁判所でも「前例が無い」と言われ・・・またか~、と思った。
どうしてこうも時代の先を行ってしまうのか!!
しかも、変な方向で!!
なんて思ったけども・・・。
離婚とは、どういった経緯があっても、お互いの否定だ。
否定されてばかりの人生だな。
さすがにシングルマザーになってしまうと、強くなる。
もちろん、我慢しすぎて胃が傷だらけになって、10時間くらい吐き続けて、なんだか深緑の変なものを吐着続けた事がある。その時も両親は非協力的で「病院に連れて行って」と母に言ったら「夜中なので運転できない」と真顔で言われ、父が救急車を呼んでくれた。
病院に着いて、また吐いて、看護師さんがくれた薬がガスター10だったのを覚えてる。そして気付いたら点滴されてた。
検査入院することになり、母が手続きに病院へ来たときは、運転できるじゃん!!って心の中で思いっきり突っ込んだ。
病室が埋まっているとのことで、ICUにお泊り。
初の経験に、ちょっとウキウキしてしまった。あ、これ、ネタになるなって。
看護師さんが優しくて、退屈だろうからってテレビもって来てくれたり、トイレも連れて行ってくれたり。
久しぶりに優しくされたな~って思った。
その後も過呼吸発作で血の混じったタンとか吐いたけど、誰も心配してくれなかった。
私が過呼吸発作をおこすと、家族全員で無視するので、外に出るようにしていた。
辛かった。
こういう否定もあるんだなって、怖かった。
まだまだ私は否定される運命なんだと思う。
だからもう、自分が自分を肯定するしかない。
それでも、見誤らないように自分を客観視していたい。
だから私は、自信がないように見えるのだと思うけど、本当は自信がある。
だって、こんなに否定されて、でも生きてるんだよ。
結局、実家も追い出されて、子供と二人暮らしだけど、仕事して自己管理して、医者にも行かずに暮らしてんだよ。
やれば出来るじゃん!って自分を褒めてるよ。
でも、無理すんなよって自分を甘やかしてるよ、たまにね。
時々は他人を見下したりしてるよ。生意気に。
ああ、こういう人にはなりたくないな、なんて。
「自分」って何だろう。
今でもわかんないよ。
「私」はどういう人間なんだろう。
知らないよ。
とにかく、毎日一生懸命すぎて、疲れちゃったよ。
純粋に「嫌だな」って思うことは避けてみる。
疲れたら、休む。
頑張れそうなら、頑張ってみる。
ごく当たり前のことを、当たり前に出来なくなる苦しさを知っているから、今、とても幸せだ。
上の子供たちには会えないでいるけど、でも、幸せだ。
仕事で、否定されちゃって少し傷ついたけど、もう何とも無い。
難しいことを考えようとしたら、過去の記憶の整理になっちゃって、ちょっと思い出してしまって脳が揺れてる。
それだけ、辛かったんだね。
客観的に思い出してみたのに、やっぱり辛いんだなぁ~。
ごめんね、私。
もう寝ようか。
「ご自愛」しましょう。
[2回]
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