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★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

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私は小さい頃から鍵っ子で、家に帰っても一人だった。
夕方、暗くなると母が帰宅して
父が帰宅して
スーパーの惣菜が夕食で
夜遅くに姉が帰宅して…私は寝る時間。

家族と会話する時間は、自分で作るものであり
話題は自分から探すものであり
気分屋な両親の機嫌を悪くさせないのが私の役目。

子供の頃は、とにかく優秀な姉に負けじと褒められたい一心だった。
お手伝いもテストも頑張って、学校でも優等生だったけれども
結局のところ、褒められる事は年に1回あるかないか。
テストで100点を採れば「当たり前」お手伝いも「当たり前」
中学受験も頑張ったけれど「結局、三流私立」と言われてオシマイ。

父は気分屋だけに、時々頑張ってもいない所を褒めてくれた。
翌日には、それを忘れてしまうのが常だったけれど。

母は姉を褒めるばかりで、私を褒める事は今もほとんど無い。
友人知人に娘の話をする時も、かならず姉を自慢して私をけなす。
わたしはそういう役目のために生まれたらしい。

こんな家族を持って、幸せなのか不幸なのかわかりはしない。
他の家族を持つ事も出来なかったから。
気が付いたらもう、私は病気だったし
両親は一緒にいるのが辛い人たちだった。
それは、仕方がないとしか言いようが無い。


結婚という行為で、新しい家族を得られると思っていた時は
期待に満ち溢れて、とても幸せだった。

最初の結婚は21歳と若く、希望に溢れていた。
けれど、最初の義母は母よりも厳しく
私を見て最初の一言が「病気だって聞いたけど、変な人じゃないのね」だった。
結婚して「貴方は家族の一員だから」と言われて
実家に帰る時には義母が私の母に「娘がお世話になります」と電話した。
これには流石の母もショックを受けていた。
「お嫁に行っても、娘である事にはかわりないのに!」って母の言葉は嬉しかった。

義母は何かにつけて私を「都会の人間」と呼んで笑った。
「都会の人にはわからないよね」って、家族全員に笑うように仕向けた。
私は新しい家族に笑われ続けた。

それでも、2人の子供を育てて行く中で、希望は捨てなかった。
新しい家族、理想の家族を作るのだ、と。

しかし、気が付くと夫は私に命令しかしない、私を否定する人間になっていた。
私も子供たちも彼に怯えて泣き暮らしていた。
彼の希望であったマイホームが私には押し込められる鳥かごに思えて苦しかった。
子供たちが「お父ちゃん、今日は機嫌いいかな?」って泣いた時に限界だと思った。
けれど…私には子供たちを抱えて鳥かごを飛び立つ力が無かった。

本当に無知で無力だったと思う。

私には家族を得ることが出来ないのだと、思い知るしかなかった。
子供たちのいない生活は、想像を絶する孤独と冷たさと、後悔と痛みに満ち溢れていた。
出来る事なら、殺して欲しいと思った。
子供たちを奪うくらいなら、いっそ、殺して欲しいと思った。
お願いだから、生きさせないでくれと思うほど、毎日が辛かった。

そういう状況でも、両親は厳しかった。
私に「お前は子供を捨てた」と言い「お前は大馬鹿だ」と罵った。
決して私を許そうとか、受け入れようとか、思ってはくれなかった。

無理に働いて、病気が再発して実家に帰った時も、冷たかった。
私の毎日の苦しみを、決して認めようとせず、ただ、排除したがった。

両親との暮らしは、すぐに限界に達した。

どうしようもなくなって、姉に助けを求めた。
思考回路も感情も閉ざして、半分死んでいるように生きるしかなかった。
ただ、ひたすらに働いて、笑って、一人で泣いて、いろんなことを我慢して色んな部分にフタをして。
開き直ったフリをして…どこかで、やっぱり誰かに助けてもらいたくていた。

母は姉を大事にしていたから、姉に家を与えた。
それだから、私は姉の所も追い出されて、一人で生きなければならなくなって
本気で死を覚悟した。

神様が、それを許さなかった。

再婚の話が舞い込んで、私はさっさと再婚した。
思考回路も感情も半分閉ざしたままで、心の半分がズタズタなままでの再婚だった。
2番目の夫もその家族も良い人だったけれど、結局は無関心なだけだった。
私の病気を平気で無視して、私の妊娠も無視してゲームに没頭した夫は
私のお腹が膨れるのに比例してゲームの時間が増えて
産後1ヶ月半にはゲームしかしないダメ人間と化した。
会社は無断欠勤。ひたすら謝る私。
会社の人が来ると毛布を頭からかぶって出てこない夫。
会社の人が帰るとゲームを再開して「腹減った」と言う夫。
私は大声で泣いた。
夫は私を無視した。(もちろん子供も)
2日間、大声で泣いて、家を出た。

行く先は実家しかなくて、両親に文句を言われながら幼い息子を母乳で育てた。
3ヵ月後に元夫の説得を始めた。
どうしても家族という希望を諦められなかった。
出来る事を全て試した。
けれど、どう頑張っても、夫も…その家族も…私と息子を助けてはくれなかった。
だから、私も夫を助ける事を辞めるしかなかった。
息子を守らなければならないから。

夫の母は、ただ嘆いて息子である夫を甘やかし続けた。
夫の姉は、ただ悩むだけで行動しなかった。
夫の兄夫婦は一切関わろうとしなかった。
夫の父は、諦めて何もしなかった。

私は息子を育てながら、調停をして裁判をした。
仕事を見つけて父親のようにがむしゃらに働いて、両親には煙たがられている。
「一人で生きていけないくせに」「住まわせてやってるのに不満そうな顔をするな」「お前は病気なんかじゃない、ただの怠け者だ」「泣くな!」「怒るな!」「不満そうにするな!」「具合が悪いと言わないで!」
両親は私にたくさんのことを制限して、私の全てを否定して、そして私に「感謝しろ」と言う。

相変わらず母は姉が大好きで、車を与えて、毎月米も与える。
私の車にはビタ一文出さない。…おもわず笑えてくる。


ねぇ。

家族って何なんでしょうね。

私には決して得られない、家族愛っていうものが
本当に羨ましくてたまりません。

許され、受容され、安心してみたいです。
本当に、心から。

それが、家族というものなのでしょう?


…ちがうのかな。


わからないです。


今の私の家族は、我慢して、無理をして、命令に従うものです。
一緒にいると自由が無く、緊張し、不安でたまらないそんざいです。

唯一、息子だけが私を需要してくれる。


自分の存在理由とか、夢とか希望というものは
今は考えないようにしています。

ただ、子供たちのために出来る事は貯金だけだって思ってひたすらに働くだけです。

病気が再発しないとも限らない。
今持ってる変異細胞がガンになるかもしれない。
そう思うと、働かずにはいられないです。


家族って、なんなんですかね。

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大丈夫

11歳の子を持つシングルマザーです(^.^)


時が力関係を解決します!

大丈夫(^ー^)

子供は誰よりも力になる愛をたくさんくれるようになります
…私は頼りない親だったけど、愛したら、ちゃんと子供は笑って幸せをくれた!

親に介護を必要になったとき、切り捨てた

昔に私の心を切り捨てて、壊した親を切り捨てられた

二人の親子だけど、今は幸せです!


時は解決してくれる!


大丈夫!(^.^)

NONAME 2010/01/24(Sunday)01:36:19 Edit
Re:大丈夫

NoNameさん、ありがとう。
こんな私のブログを見てくださって、コメントまでいただけるとは光栄です。恐縮です(><;
信じるしかないですよね。未来をね。

【2010/01/2721:40】
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