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★×2ワーキングシンマザwith PD ★SoWhat!? 今日も元気にC'est ma vie~☆

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離婚を切り出したのは、私であった。・・・ええ。実は。
な~んでかって言うと、元夫がキレるようになったので。DVって言えるのかわかりませんけど、ともかく子供たちも私も怯えて暮らしてたわけです。そんなある日の保育園の帰り道で・・・突然、子供たちが「今日はオトーチャ、機嫌いいかなぁ?」と言って、泣き出した。・・・それっくらい、酷かった。
キレる原因は私のライフワーク活動(芝居)が気に入らない、とか、仕事で嫌なことがあった、とかで。全然、何も相談されないまま突然キレ週間に突入して、7~10日不機嫌になるのです。その期間に、まだ保育園の子供を、ちょっとした事で叱るんです。ガーガー怒鳴って「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」って謝ってる子供に「だめだ!許さない!」って・・・またガミガミ、ガーガー。テレビ見ながら2~3時間。子供たちがテレビを見ようとしたり、泣きつかれて船を漕ぎ出すと、また怒鳴って・・・足で軽く蹴飛ばすの。それで、倒れた子供を笑うの。さらに、倒れた子供をサッカーボールみたいに蹴飛ばして・・・。布団に着地するように蹴る。「上手く蹴っているから、怪我させてないぞ」って笑顔なの。
・・・私は、怖くて怖くて。
結婚して2年くらいで、彼からは命令しかされなくなってた。相談は母親にする人なのね。男性には多いけども、母親の意見が第一で。本人の意思よりも優先だったりする。そういう育ち方をしたのだと思う。キレ週間も、そういうことが許されていたから、大人になっても続いたんじゃないかな。推測だけど。
悪い人ではないけど、敵にはしたくない人。それが、私の元夫でした。結婚するときは、当然、敵になる予定なんてなかったからね。妊娠していて、父親かもしれないもう一人には「無理」って言われてて、困ってたし。
そう、私は元夫の遺伝子を持たない子供を、結婚後に産んだんです。元夫公認のもとに。
その長女と、翌年産んだ長男は、当然、私が引き取るつもりでした。私は過呼吸症候群(後にパニック障害と判明)を持っていたので、普通に働いたことがありませんでしたが、児童福祉課に相談に行ったりして、育てるつもりでした。離婚を切り出してから3日間は、泣いて復縁を懇願していた元夫ですが、私が芝居の稽古で外出している時に、母親に相談したらしく、翌日には「離婚は自分も前々から考えていたので承諾する。が、親権は譲れない」「暴力は認めるけど、その原因はお前にある。離婚したら、もうしない」と、ビックリ発言。それでいて「オレには友達がいないし没頭できる趣味もない。子供たちがいないと生きて行けない」と泣いたりして。「どっちが親権を取っても、月に1回は面会日を作ろう」と言いました。
が、その後すぐに、それまで私が一人でやっていた、家事と子供の世話を率先してするようになり、それと同時に私の姿が見えなくなってしまったのでした。私は、無視というものの威力にのされてしまいました。元夫のいる部屋には、恐ろしくて入れないのです。台所、居間、洗面所、玄関・・・居場所を失って、外出すると家に帰るのが怖くなりました。そこが、私の弱さでした。元夫の命令に、背けない。
深夜に帰ったり、誰もいない昼間に帰ったり、ビクビクして過ごすうちに、どんどん自信を失っていきました。自分には病気がある。両親には頼れない。ギリギリの生活を子供たちを抱えて、耐えられるのだろうか?暴力の原因は私だと言われた。確かに、芝居で忙しかった。私には友達もたくさんいる。どちらかが、子供たちに会えない生活に耐えなくてはならないのなら、それは私の役目なのではないか?病気の私に、どんな生活が送れるだろう?ますます子供たちを苦しめるのではないか?
後に知ったのですが、こういうマイナス思考&消極的考えをしてしまう親って多いらしいです。間違った考えです。自分が辛ければいい、なんて思っちゃいけません。だって、離婚は辛くなるためにするんじゃありませんから。ね?離婚して辛くなるなら、離婚する意味が無いでしょう?
だけど、そのときの私には、そういう考えは浮かばなかった。
面と向かって話が出来ない状況だったので、メールをしました。「月に1回の面会、宿泊を伴う面会、行事への参加。以上の条件をのんでくれるなら、親権を譲歩してもいいです」返事はこうでした「以後、全ての話し合いは調停で承ります」
驚いて家に帰ると、申立書がありました。チラリと見えたのは「家庭を顧みない」という項目に付いたチェックでした。私の最終学歴が間違っていました。・・・絶望を感じた時でした。胸が痛かった。
元夫の無視はずっと続き、絶望してしまった私は、友人宅を泊まり歩くようになりました。時には友人の車で寝ました。子供たちに会うために、週に2回は帰りましたが、居場所は寝室だけでした。
怖くてたまらなかった。
その怖さは、恐らくパニック障害になったことのある人にしか、わからないと思います。
やがて、調停の日が来ました。
そこで、言い渡された元夫の意見は・・・「親権はもらう。面会はゼロ」でした。私は過呼吸発作を起こして、医務室に運ばれました。調停は次回に持ち越されました。調停っていうのは、だいたい1ヶ月に1回のペースで行われます。次回調停までの1ヶ月の間に、元夫から「子供とオレは引っ越すから、お前の荷物、持って行け」と言われ・・・命令に従ってしまいました。これで、「別居」が成立し、私は保険証を失いました。
だいぶ後になって、罠だったのか?と思い、ショックで死にそうでした。それで、子供たちを連れて実家に行きました。直後に元夫から激しい電話とメールの嵐。実家の両親も手助けをするつもりが無いと知り(わかっていたけど)ガッカリして帰る(帰りの新幹線で、子供たちに謝りました。たくさん、泣きました。子供も私も。)と、元夫が子供たちを迎えに来て「もう二度とこんなことするな!」と駅前で派手に怒鳴られました。
そんな中で、調停二回目。元夫の暴力を訴えても、聞いてもらえず「それなら何故親権を手放したのだ」と不審な目で見られ「病気だからです」と答えるとため息をつかれました。・・・まあ、そうでしょう。変ですよね。
ともかく「親権を譲歩するなら条件をのんでもらいたい」と主張したけれど、どうにも取り合ってもらえず「ならば親権を白紙に戻してくれ」と言うと「それは、もう決まったことだから、出来ません。それに、あなた病気なんでしょう?育てられるの?」と嫌な顔をされました。
暴力は元夫も認めましたが、それを理由に面会を頻繁にすることは叶いませんでした。調停人から「後で回数は増やせるから。面会日ごときで裁判する人なんていませんよ」と強く説得され、年3回で合意することになり、書類を作成しながら裁判官が「年3回は多いほうですよ~」と笑いました。正直、死んでしまえって思いました。
離婚成立後、元夫から電話も手紙も禁止されました。住所も電話番号も教えてもらえませんでした。子供たちにとって、面会は大事なのだと説得しても、怒らせるばかりでした。

こうして、私の半身死んだ生活が始まったのです。

この調停に関して、疑問が多く残りますが、朝廷に対して公平さを求めること自体が間違いなのかもしれません。これから調停をなさる方は、ネットや本などで、とことん調べてから臨んでください。
親権は一度決まったら、変えることは難しいです。無理だと言っても過言ではありません。その時の自分に流されずに、ずっと先まで考えて、頑張ってください。
どんな理由でも、親権を手放した母親に、世間は冷たいです。特に地方では、その事実だけで仕事をもらえなくなります。とかく親権者の見方です。世間様はそういうものです。

ですが、何より大切なのは、子供たちの気持ちだということを、忘れないでください。
「離婚しても子供を幸せにする方法」という本をお勧めします。

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